鰻は上質な滋養強壮食


 

天然うなぎの旬は秋~冬季

 


 天然うなぎは冬眠する前の秋から冬前にかけての時期が旬でもっとも脂がのって美味しいといわれます。

 

 それに対して養殖うなぎには旬はなく、一年中いつでも旬であると言われてきました。それでも現場の鰻屋の職人さん達に言わせると養殖うなぎであっても冬の方が脂乗りが良いのだそうです。

 

 北大路魯山人もこのことについて「うなぎはいつ頃がほんとうに美味いかというと、およそ暑さとは対照的な一月寒中の頃のようである。だが、妙なもので寒中はよいうなぎ、美味いうなぎがあっても、盛夏のころのようにうなぎを食いたいという要求が起こらない。美味いと分っていても人間の生理が要求しない。と言っています。

 

 さらに続けて「しかし、盛夏のうだるような暑さの中では、冬ほどうなぎは美味ではないけれど、食いたいとの欲求がふつふつと湧き起こって来る。これは多分、暑さに圧迫された肉体が渇したごとく要求するせいであって、夏一般にうなぎが寵愛されるゆえんも、ここにあるのであろう。もちろん、一面には土用の丑の日にうなぎと、永い間の習慣のせいもあろう。」と分析しつつ言及しています。

 

 日本人でも夏のうなぎは食べる人が多いと思いますが、美味を求めるのであれば、冬の鰻も食べて味わいたいですね。

 

「土用の丑の日」と平賀源内

 鰻と言えば、夏の土用の丑の日(土用鰻)に夏バテ防止のために食べる習慣がすっかり定着しています。


 諸説ありますが、一番有名なエピソードとしては、江戸時代にうなぎ屋が夏に鰻の売り上げが落ちるのを何とかしようと平賀源内に相談したところ「土用の丑の日のうなぎ」キャンペーンで夏の鰻の売り上げを伸ばした、とされています。

 平賀源内説はよくTVでもネット上でも紹介されています。平賀源内説の出典は何なのかと気になって調べてみても全然典拠がはっきりしません。

 ネット検索すると、平賀源内説の出典が江戸後期に書かれた『明和誌』であるという指摘もあったので実際に『明和誌』の原書を調べてみましたがどこにも見当たらないのです。

 『明和誌』の分量はたいした量ではないのですぐに全文を読むことができます。箇条書き形式なのでとても読みやすいです。やはり「原書に当たる」のは必須です。

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも「土用の丑の日」について解説していて「平賀源内説の出典は不明で、前述の『明和誌』にあると説明するケースもあるが、『明和誌』には記されていない」と指摘しています。

 

 車 浮代さんは『江戸の食卓に学ぶ』の中で【平賀源内説】を否定して「鰻屋に「夏場は鰻が売れなくて困る」と相談された平賀源内といわれていますが、おそらくこれは山東京伝か、太田南畝(蜀山人)あたりの間違いだと思われます。鰻ブームが起こったのは、平賀源内の没後数十年経ってからのことで、辻褄が合いません」と指摘しています。

 



「土用鰻」の風習はいつ頃から!?

 

甘酒のイラスト 其の①説:「土用鰻」は江戸中期頃から(『明和誌』説)


 『明和誌』平賀源内説への言及がないかわりに次のような指摘があります。

 

『明和誌』と『東都歳事記』夏之部&冬之部(国立国会図書館蔵)の原文を引用

【原文】

近き頃、寒中丑の日にべにをはき、土用に入、丑の日にうなぎを食す。寒暑とも家毎になす。安永天明の頃よりはじまる。

【解説】

 この文章では、平賀源内説は書かれていないけど土用の丑の日に鰻を食す習慣が安永・天明の頃(1772~1789年)から始まったと指摘しています。これが本当なら“冬”の「土用鰻(土用の丑の日の鰻)」はだいたい江戸中期頃から始まったことになります。

 「寒中丑紅」という言葉があり、「丑紅(うしべに)」や「寒紅」ともいいますが、江戸時代の寒中丑の日に紅を買う風習がありました。に薬効成分があり、口中の荒れを防ぐ効果があるとされていました。乾燥した寒い冬は肌荒れもしやすいので女性の間でそのような習慣があったのですね。

 見落としてはいけないのが「寒中丑の日に……土用に入、丑の日にうなぎを食す」とあり、「寒中丑の日(冬の土用の丑の日)」に鰻を食す風習があったことがわかります。「寒暑とも家毎になす」とあるので夏の土用の丑の日にも鰻を食べたのだと思います。

 『東都歳事記』冬之部・十一月「寒中丑の日」にほぼ同じ内容のことが次のように書かれています。

寒中丑の日 ○丑紅と号て女子紅を求む ○諸人𩻠鱺(ウナギ)を食す

 同じ『東都歳事記』夏之部・六月「土用中丑の日」にも「うなぎを食す」という記事があるかと思いきや一切書かれていません冬之部・十一月「寒中丑の日」の方にのみ「うなぎを食す」記事があります。

 冒頭の文で紹介したように天然うなぎの旬の時期は、秋から冬前までなので「寒中丑の日」に鰻を食べる方が脂乗りもよく美味しかったはずです。逆に夏季のウナギは痩せていて脂乗りもイマイチな鰻ということになります。

 

 

 

甘酒のイラスト 其の②説:土用鰻」は江戸後期から(『山形経済志料』説)


 『山形経済志料(第2集)』〔1923年(大正12年)刊〕に次のような証言があります。

 


【原文】

夏季土用中には種々の風習が行はれ、各地大抵相似てる點があつて、丑の日には土用丑とて鰻の蒲燒を食ふのが習慣となつてゐる …(中略)… 父の話に依れば天保年間(今より九十年前)以前には丑の日になつたとて別に鰻を食べるやうな事はなく、商賣は至て閑散なものであつた、それが天保年間以來弗々賣れるやうになり、天保の末弘化嘉永年間には最も繫昌し、土用の丑の日には何んでも彼でも鰻でなければならぬと言ふやうになつた、その由來は詳かでないが丑の日に食べると其年は决して病疫に襲はれぬと傳へられてゐるのだ 【『山形経済志料』「土用鰻の事 柴田彦兵衛氏談」】

【解説】

 大正時代に書かれた『山形経済志料』「土用鰻の事」の柴田彦兵衛氏の証言によれば、天保年間(1831~1845年)以前は“夏”の土用の丑の日に鰻を食す風習は無かった、といい、商売としては閑散期だったことがわかります。

 本文の「天保年間(今より九十年前)」というのは、『山形経済志料』が書かれた当時(大正12年〔1923年〕)から数えて「九十年前」ということです。天保年間(1831~1845年)は現在から数えれば「190年程前」になります。

 天保年間以降はだんだんと売れるようになり、弘化・嘉永年間(1845~1855年)に一番の繁盛となり、すっかり世の中に“夏”の土用の丑の日に鰻を食す風習が根づいていった、と言っています。「土用鰻」の由来ははっきりしないが、土用の丑の日に(鰻を)食べると病気しないという俗信があったからだ、としています。

 

 柴田彦兵衛氏『山形経済志料』(大正12年〔1923年〕刊行)が書かれた当時の記事で「御年70歳」とあるものの、生まれ年は江戸時代の嘉永三年〔1850年〕の生まれといっています。柴田彦兵衛氏は鰻屋の二代目であり、父が初代でした。

 

 柴田彦兵衛氏の父・定治がいつの生まれなのかはわかりませんが『山形経済志料』の証言「天保年間以前には丑の日になつたとて別に鰻を食べるやうな事はなく、商賣は至て閑散なものであつた」が正しいのであれば、柴田彦兵衛氏の父親は天保年間(1831~1845年)以前から鰻屋の商売をしていたことになります。


 辻褄が合うように柴田彦兵衛氏の父・定治の生まれ年を考えれば、仮に1810年代の生まれと仮定すると1830年代の天保年間になる頃にちょうど成人になります。当時は10代から仕事することも珍しくなかったとすれば「天保年間以前には …… 商賣は至て閑散なものであつた」という証言も真実味を帯びてきます。そうなると柴田彦兵衛氏は父親がアラフォー(40歳前後)の頃に生まれたことになります。

 

 


甘酒のイラスト 『明和誌』説と『山形経済志料』説のズレは何か

 『山形経済志料』説(「土用鰻」のはじまりは天保年間〔1831~1845年〕以降とする)と『明和誌』説(「土用鰻」のはじまりは江戸中期の安永天明〔1772~1789年〕頃からとする)を比べると50~60年程のズレがあります。このズレは何なのでしょうか。

 『明和誌』『山形経済志料』のどちらにも言えることですが、回想録や随筆文は“記録”よりも“記憶”を頼りにして書きつづっているので、記憶違いの部分があっても不思議ではありません。それにしても約50年のズレは大き過ぎます。

 川柳集『誹風柳多留』に次のようなものがあります。

丑の日に籠でのり込む旅うなぎ (柳73)
土用丑のろのろされぬ蒲焼屋 (柳74)

 文政四年〔1821年〕の川柳で、当時の様子をうかがい知ることができます。

  『誹風柳多留』でいう「丑の日」「土用丑」が“夏”の「土用鰻」を指していると仮定した場合、『山形経済志料』では天保年間(1831~1845年)以前は、夏の鰻屋は“閑散期”だったというのとは違い、『誹風柳多留(七四)では文政四年〔1821年〕の時点で“夏”の「土用鰻」がとても流行っていて“繫忙期”だったことがわかります。山形と江戸(東京)の地域差があったからだとも考えられます。江戸で先に流行っていた“夏”の「土用鰻」が山形に伝播するまでに十年もかかったのかは少し疑問が残りますが。。。


 ここで問題になるのは『誹風柳多留』でいう
「丑の日」「土用丑」が本当に“夏”の「土用鰻」のことをいっているのかが分からないことです。“冬”の「土用鰻」のことをいっているのかもしれないからです。

 前述したように『東都歳事記』(天保九年〔1838年〕刊行)では「土用鰻」について「寒中丑の日」に鰻を食べる、とあり、夏の「土用中丑の日」には鰻を食べる、という記述はありません。まさか書き忘れたとは考えにくいので『東都歳事記』の刊行された頃(天保九年〔1838年〕)は、江戸府内でも“冬”の「土用鰻」の習慣はすっかり定着していたけれども“夏”の「土用鰻」については流行はあったもののまだ定着する前だったから書かれなかったのではないかと邪推しています。

 後述する『守貞謾稿』(天保八年〔1837年〕起稿)には「鰻蒲焼売り」「鰻飯」「鰻屋」などについて詳細な解説がありますが「土用鰻」については何も触れられていません。


 逆に天保八年(1837年)に刊行された『天保佳話』では明確に“夏”の「土用鰻」について触れていて「土用ノ丑ノ日ニ𩻠鱺〔うなぎ〕ヲ喫フ事ハ𩻠鱺〔うなぎ〕ハ夏痩ヲ療スルモノナレバナリ」と言っています。

 『明和誌』「寒中丑の日にべにをはき、土用に入、丑の日にうなぎを食す。寒暑とも家毎になす。安永天明の頃よりはじまる。」という文章のメインは「寒中丑の日」に鰻を食べる、という所であり、“冬”の「土用鰻」の風習が安永天明の頃からはじまった、と解釈すべきかと思います。

 「鰻屋」「うなぎ蒲焼」「鰻飯」などについての江戸時代の資料はとてもたくさんあるのですが「土用丑の日」が春夏秋冬それぞれにあるので「丑の日」「土用丑」と資料に書いてあってもどの季節のものなのか容易に特定できないのが難しいところです。

 

 


甘酒のイラスト 冬の土用鰻は安永天明の頃、夏の土用鰻は天保年間以降に定着!?

 前述したように、江戸時代には養殖うなぎは無く、天然うなぎを食べていました。現代の養殖うなぎには旬は無いとも言えるし一年中いつでも旬であるとも言えます。天然うなぎの旬は脂乗りのよい秋から冬にかけてなので一番美味しい冬に食べるのが自然です。

 『山形経済志料』で柴田彦兵衛氏が語っているように江戸時代の“夏”の「土用鰻」が定着するまでは夏季の鰻屋は閑散としていたことがわかります。それまでは鰻屋の稼げる時期は冬季だったはずです。

 天然うなぎの旬が秋冬であることから、先に“冬”の「土用鰻」が定着し、あとから“夏”の「土用丑の日」にも「うなぎを食す」流行が起こり、やがて“夏”の「土用鰻」の習慣も根づいていったと考えるのが自然だろうと思います。

 以上、『明和誌』『山形経済志料』、『東都歳事記』のそれぞれの記述が皆正しいと仮定した上で矛盾しないように解釈すると、『明和誌』冬の土用鰻のはじまりが江戸中期(安永天明の頃)といい、『山形経済志料』夏の土用鰻のはじまりが江戸後期(天保年間)以降だったということではないか、と。

 

 

 

甘酒のイラスト 其の③説:土用鰻を食べない風習があった

 

明治31年発行の『風俗画報 臨時増刊 新撰東京歳時記 下編』第159号には次のような興味深い記事があります。

 

『風俗画報 臨時増刊 新撰東京歳時記 下編』第159号


【原文】

世俗土用中の丑の日に鰻鱺(うなぎ)を食すれは或は運を開くと云ひ或は無病なりと云ひて之を食するに因り市中所在大小の鰻店皆其舗頭に今日うしと書せる紙牌を掲け以て客の注意を促す。 …(中略)… 往古土用中の丑の日に鰻を食すれは大悲利他不盡天の如く諸願滿足を主る虚空藏菩薩〔こくうぞうぼさつ〕の忌諱〔きき〕に觸(ふる)ると云て世上普通の人は皆此日鰻を食せさりしなり。而して日常膳に魚肴を上すこと能はさる貧人(ひんじん)は是日に限り廉價(れんか)を以て鰻を食し得るに因り皆爭(あらそひ)て之を求めり。何れの鰻店も此の機に乗し此等貧人の注意を喚起するか爲めに紙牌を店頭に掲け以て之を待ちしが今は全く反對(はんたい)になりしこそ笑(をか)しけれ。

 


【解説】

 明治31年の『風俗画報』第159号では、明治の世の中では土用鰻を食べれば「運が開ける」とか「病気しない」とかいう俗信があるので鰻店も「今日うし(の日)」と貼り紙をして集客していたことが書かれています。

 さらに別の角度から「土用鰻のはじまり」について次のように書かれています。

 民俗信仰の中で、丑・寅年生まれの人の守り本尊とされる虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)ウナギが深く結び付けられていたので土用の丑の日に鰻を食べることが忌み嫌われていた、とあります。

 鰻店は虚空蔵菩薩信仰のうなぎ食禁忌の影響で土用の丑の日にウナギが売れないので値下げをせざるを得ませんでした。逆に(虚空蔵菩薩信仰とは関係ない?)貧乏人は鰻が値下げされるこの日を狙って買い求めていたようです。鰻店もこれに便乗して店頭に「今日うし(の日)」のような貼り紙をするようになったが、(明治31年当時の)今では(虚空蔵菩薩信仰によって土用鰻を食べることを忌み嫌っていたことはすっかり忘れられて)反対になっているのは非常にへんてこなことになっているものだ、と言っています。

 民俗学者の佐野賢治氏への取材記事【ウナギをめぐる民俗学】によれば「丑・寅生まれの守り本尊とされる虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)がウナギとかかわりが深く、そこからウナギを食べないタブーが生まれました。ウナギは虚空蔵菩薩の乗り物だとか、使者だと考えられた」と言っています。他にも「虚空蔵信仰とは関係なしにウナギを食べない地域(黒潮に洗われる鹿児島や伊豆七島)」があったことも指摘しています。

 現在に至るまで虚空蔵菩薩信仰の影響で鰻食を禁忌とする人々や地域が確かにあるのです。

 

 


誹風柳多留』の中の「鰻飯と虚空蔵菩薩」

 『誹風柳多留』の中に鰻と虚空蔵菩薩についての次のような句があります。

鰻めし菩薩の中に虚空蔵 (柳110)

 この句について『江戸川柳飲食事典』では「菩薩は米の異称。下五は「食うぞう」に掛ける。俗言に虚空蔵菩薩のお使いがうなぎであるとして信者は食わぬという」と解説しています。

 鰻丼飯の米(=菩薩)の中に埋もれている鰻(=虚空蔵)「食うぞう」に掛けた語呂合わせになっています。虚空蔵菩薩と鰻の関係の深さは確かに認識されていたようです。

 

 江戸時代の『明和志』、明治時代の『風俗画報』、大正時代の『山形経済志料』などの資料を見てきましたが、諸説ある中の3つの説として参考になります。

 

 


『浄瑠理町繁花の圖』にみる「蒲焼屋」

 

歌川広重の『浄瑠理町繁花の圖』の引用


 上の絵図は歌川広重の『浄瑠理町繁花の圖』になります。この『浄瑠理町繁花の図』人形浄瑠璃(文楽)の有名な演目を縁日に見立ててパロディ化したものです。見てるだけでも楽しいですね。

 中央やや左側に「瀬田前」「かばやき」と書かれた看板を出してウナギをさばく主人と焼きの婦人の様子が描かれています。
 「瀬田前」は琵琶湖からの流れにある瀬田川(勢田川)で獲れた鰻のことをいっています。江戸時代の頃に瀬田鰻が有名だったようです。


 鰻の蒲焼の調理は「串打ち三年・裂き八年・焼き一生」と言われる程に難易度が高いのですが、焼きの婦人はよそ見しながらゆる~く焼いているようにも見えます。

 

 


『職人尽絵詞』に見る「蒲焼屋」

 

浮世絵師・鍬形蕙斎の『職人尽絵詞』の引用


 『職人尽絵詞』は浮世絵師・鍬形蕙斎(くわがたけいさい)によって描かれた江戸時代の職業・風俗の絵巻物です。

 

 現代では葛飾北斎が超有名で「鍬形蕙斎(北尾政美)って誰?」という感じですが、当時は「北斎嫌いの蕙斎好き」という言葉があるほど有名な絵師だったようです。

 「百聞は一見にしかず」とはよく言ったもので視覚情報は文字情報とはひと味もふた味も違ってとても貴重です。『職人尽絵詞』を見ると当時の職人の佇まいや文化・風俗の風景を垣間見ることができます。

 『職人尽絵詞』「うなぎ蒲焼屋」中央下にある小さな文字の書入れには「わらはがもとには旅てふ物は候らはず。皆江戸前の筋にて候」とあります。

 

 意訳すれば「当店は江戸前の鰻しか使っていません」と自慢げに誇っています。もともと「江戸前」という言葉は鰻のことを指して言いました。「江戸前」に対して「江戸後(えどうしろ)」という言い方もありました。江戸っ子は好んで「江戸前」のものを食しました。


 江戸時代の方言辞典『物類称呼』には「江戸にては浅草川深川辺の産を江戸前とよびて賞す。他所より出すを旅うなぎと云〔ふ〕」とあり、「江戸前」ではない地方から輸送された鰻は「旅うなぎ」という言い方をしたのがわかります。

 

『物類称呼』と『本草綱目啓蒙』の原書の引用


 『職人尽絵詞』「うなぎ蒲焼屋」左側にある書入れには次のように書かれてあります。

うなぎ(鰻)はうま(旨)きの相通にして かばやき(蒲焼)はかはよき(香者能)の相通なり。中にも みや戸川より出るをめでて江戸前といふ。ゐざか屋(居酒屋)はいさかひと語音響きたればしばしば諍〔いさ〕かひあり。皆卑賤の俠者也。これを江戸前の人と号〔なづけ〕て鱣に反せり。

 語呂遊び的説明文になっています。「かばやき(蒲焼)」「かはよき(香者能)」に似た音の響きになっています。「みや戸川」宮戸川であり、浅草付近の隅田川の別称になります。宮戸川(隅田川)で獲れた鰻を愛でて「江戸前」といった、とあります。やはり「江戸前」なんですね。

 『本草綱目啓蒙』でも「江戸ニテハ淺草川深川邉ノ産ヲ江戸前ト稱シテ上品トシ他所ヨリ出ルヲタビウナギト稱シテ下品トス」とあり、「江戸前」を上品とし、地方産の「旅うなぎ(タビウナギ)」を下品として区別していたことがわかります。

 その後の「ゐざか屋(居酒屋)」は「いさかい」と音の響きが似ていて、だから居酒屋では荒くれ者(卑賤の俠者)がトラブルを起こす、と面白おかしく皮肉っています。遊び心ですね。

 

 


『万葉集』の中の鰻の歌二首

 奈良時代末期(8世紀後半)に成立したとみられる『万葉集』にも痩せた人に栄養満点の鰻を食べるようにからかう二首の歌があります。ちょっとブラック・ユーモアな内容ですが、紹介します。

 

『万葉集』「嗤咲痩人歌二首」の原書の引用


【原文】


嗤咲痩人歌二首

 石麻呂尓.吾物申.夏痩尓.吉跡云物曽.武奈伎取食.【巻16‐3853】
 いしまろに われものまうす なつやせに よしといふものぞ むなぎとりめせ

 ▼ 武奈伎(むなぎ)=うなぎ(鰻)

 痩〃毋.生有者将在乎.波多也波多.武奈伎乎漁取跡.河流勿.【巻16‐3854】
 やすやすも いけらばあらんを はたやはた むなぎをとると かわにながるな

 


【解説】

 「嗤咲痩人歌二首」“痩人(やせひと)を嗤咲(あざけ)る歌二首”という意味になります。「痩人」は“やせている人”、「嗤咲」「嗤」「咲」も“笑(わらう)”の意味ですですが「嗤」には“あざわらう”の意味も含みます。

 「咲」は一般的には“さく”であり、花が咲く、などの意味で知られていますが、“わらう”の意味もあります。女優の武井 咲(たけい えみ)さんの「咲」も同様です。

 上の句「石麻呂尓……」の意訳をすると「石麻呂(いしまろ/いわまろ)に私は申し上げる。夏痩せに良いという鰻をつかまえて召し上がれ。」という内容になります。


 「夏痩(なつやせ)は、夏バテによる食欲低下からくる「夏痩せ」です。「武奈伎(むなぎ)は、うなぎ(鰻)のことで、この時代から夏バテ(夏痩せ)には鰻を食すべきという認識があったみたいですね。

 下の句「痩〃毋……」の意訳をすると「痩せていても生きているならば〔いろいろ〕あるだろうけども、もしや万一にも鰻を取ろうとして川に流されないでね」という意味になり、親しい仲なのかもしれないけども痩せている石麻呂さんを大伴家持がからかう内容になっています。

 ともあれ『万葉集』の編纂された奈良時代の時点ですでに「夏痩せ」に栄養満点の鰻が良いと認知されていたことがわかります。この頃から鰻が滋養強壮食であるとわかっていたのですね。

 

 


『本朝食鑑』中の鰻の効用

 『本朝食鑑』は、1697(元禄10)年に刊行された本草書ですが、わかりやすく言えば、江戸時代の食に関する専門書になります。食材の気味や効能などについて詳しく書かれています。

 

『本朝食鑑』巻七 鰻鱺魚の原書の引用


【原文】

鰻鱺魚
〔気味〕甘。温。無毒。
〔主治〕暖腰起陽。袪諸風。療五痔。治悪瘡。殺一切之蟲。小児疳傷及蟲心痛者最宜。

【解説】

 意訳ですが「鰻は、甘く、温める性質があり、無毒である。鰻の効用は、腰を温めて性機能を高める。諸々の風毒を取り除き、五痔を改善し、悪瘡を治す。一切の虫(蟲)を殺す。小児の疳傷および虫(蟲)による心痛にはもっとも宜しい。」となります。要するに滋養強壮食です。

 現代の知見では、鰻の血液中には毒成分があることがわかっています。このウナギ毒は60℃で5分以上の加熱で完全に毒性を失います。

 厚生労働省HP内にある【自然毒のリスクプロファイル:魚類:血清毒】によると、ウナギ目魚類(ウナギ、マアナゴ、ウツボなど)には「ウナギの新鮮な血液を大量に飲んだ場合、下痢、嘔吐、皮膚の発疹、チアノーゼ、無気力症、不整脈、衰弱、感覚異常、麻痺、呼吸困難が引き起こされ、死亡することもあるといわれている」とあります。

 実は『本朝食鑑』の中でも「性寒有毒」説があると紹介しています。それについて『本朝食鑑』の著者の人見必大は鰻の中毒例を聞いたこともないので誤った説であろうと否定しています。もしかしたら鰻の生食をした人が血液中の毒成分に当たって中毒したのかもしれません。あくまでも邪推ですが。。。

 

 前述したようにウナギ毒は加熱すれば無毒化できますのでご安心ください。

 

 


『守貞謾稿』にみる江戸の鰻丼飯

 

『守貞謾稿』鰻飯の原書の引用


【原文】

江戸鰻飯百文ト百四十八文 二百文

 圖ノ如ク蕣形ノ丼鉢ニ盛ル。鉢底ニ熱飯ヲ少ヲイレ其上ニ小鰻首ヲ去リ長(た)ケ三四寸ノ物ヲ焼キタルヲ五六ツ並ベ又熱飯ヲイレ其表ニ又右ノ小鰻ヲ六七置ク也。
 小鰻骨ヲ去リ首モ除キ尾ハ除カズ。

文久ニ至リ諸價頻リニ騰揚シ鰻魚モ亦准之二ヨリ此丼飯ト云物モ百銭・百四十八銭ヲ賣ル家ハ最稀トナリ大略二百文ノミトナル。

【解説】

 まず最初に「江戸の鰻飯は百文・百四十八文・二百文」とあります。

 丼鉢の鉢底に米飯を入れ、小さめの鰻を五~六つ並べてさらにその上に米飯を入れ、さらに六~七つ小さめの鰻を並べるという盛り方をしたようです。

 文久(1861~1864年)になってから鰻の値段が高騰して、百文・百四十八文から二百文に値上げされた、とあります。江戸後期の頃では、麦湯(麦茶)一杯が四文、甘酒一杯やたたき納豆が八文だったことと比べれば、鰻飯はかなり高価な食事だったことがわかります。今も昔も同じですね。

 

 

 

俗事百工起源』による「鰻飯」の起源

 宮川政運による著『俗事百工起源』(慶応元年〔1865年〕刊行)では「うなぎ飯の始め」について次のように言っています。

【原文】

うなぎ飯の始めは文化年中、境町芝居金主大久保今助より始まる、 …(中略)… 前文のごとく少しも奢(おご)る心なく日々自身芝居に出る、この今助つねに鰻を好み、飯ごとに用うれども百文より余分に用いしことなしと。いつも芝居へ取り寄せ用いしゆえ、焼きさましになりしをいといて、今助の工夫にて、大きなる丼に飯とうなぎを一処に入れ交ぜ、蓋(ふた)をなして飪(にん)にて用いしが、いたって風味よろしとて、みな人同じく用いしが始めなりと云う。今はいづれの鰻屋にても丼うなぎ飯の看板のなき店はなしと云う。

 

■「飪(にん)」は“煮る”の意味。ここでは“蒸す”の意味に近い。

 


【解説】

 鰻丼飯のはじまりとして文化年間(1804~1818年)の「大久保今助」説が紹介されています。

 鰻丼飯の起源は、堺町(現在の東京人形町)の芝居小屋のスポンサー兼役者だった大久保今助にちなんだエピソードになります。

 

 大久保今助が鰻が大好物だったので芝居小屋にいつもお取り寄せするけれども冷めてしまう。それを嫌った大久保今助のアイデアで大きめの丼にご飯と鰻をいっしょに混ぜ入れて蒸して冷めないようにしました。この鰻丼飯スタイルが皆に好評で広まっていった、とのこと。これが鰻丼飯のはじまりである、というのが『俗事百工起源』説になります。

 

 

 『江戸川柳飲食事典』【鰻(うなぎ)】では「うなぎ飯」について次のように解説されています。

 

鰻の食べ方が現代のように「うなぎ飯」となったのは「天明のはじめ」(世のすがた、天保4)とか、「文化年中」(俗事百工起源)などとあり文明ではないが、ともかく江戸の後期である。

 

 『俗事百工起源』「文化年(1804~1818年)中」起源説とは別に『世のすがた』「天明(1781~1789年)のはじめ」説も紹介されています。『世のすがた』「天明のはじめ」説は前述した『明和誌』の土用鰻が「安永・天明の頃(1772~1789年)から始まった」説とほぼ近い時期になります。

 

 


現代栄養学から見る鰻の効用

・亜鉛
・ビタミンA
・ビタミンB群
・ビタミンE
・EPA
・ムチン

 『からだによく効く 食材&食べあわせ手帖』によれば【鰻(うなぎ)】は、疲労回復に役立つビタミンB2・抗酸化作用のあるビタミンE・動脈硬化予防につながるDHAEPAが含まれ、夏バテ予防や食欲不振の解消につながると考えられます。他にも肝に豊富に含まれるビタミンA(レチノール)には、消火器や呼吸器、胃腸などの病気やかぜを予防するほか、肌を美しく保ったり、夜盲症予防に効果があるとされます。

 

 

 

参考文献

 

・『魯山人の食卓』北大路魯山人
・『江戸の食卓に学ぶ』車 浮代・『江戸めしのスゝメ』永山久夫

・『大江戸美味草紙』杉浦 日向子【著】、新潮社

・『江戸の庶民が拓いた食文化』渡辺 信一郎【著】、三樹書房

・『江戸川柳飲食事典』渡辺 信一郎〔著〕、東京堂出版
・『からだによく効く 食材&食べあわせ手帖』三浦 理代、永山 久夫【監修】

・『本朝食鑑』(人見必大〔著〕、島田勇雄〔訳注〕)東洋文庫296 平凡社

・『近世風俗志―守貞謾稿 (1) (岩波文庫)』

・『塵塚談・俗事百工起源』小川 顕道、宮川 政運〔著〕、神郡周〔校注・解説〕、現代思潮社

・『山形経済志料(第2集)』〔1923年(大正12年)刊〕