甘酒は栄養満点の健康飲料


甘酒のイラスト

甘酒のイラスト 甘酒のすすめ

 日本古来の甘酒「飲む点滴」「飲む美容液」と言われるように非常に栄養価の高い健康飲料として再注目されています。最近ではどのスーパーに行っても一年中甘酒が販売されています。

 現在では初詣の時に参拝客に甘酒が振舞われるので「冬のイメージ」が強いように感じますが、江戸時代後期には厳寒の冬はもちろん酷暑の夏にも甘酒を飲んでいました。

 

 栄養満点の甘酒は夏バテ防止のために飲まれたのです。他にも江戸時代に一番死亡率が高まるのが夏だったからという指摘もあります。エアコンが無い時代なので栄養ドリンクである甘酒を飲むことで酷暑の夏を乗り切ったのでしょうね。

 そんなわけで「甘酒」は夏の季語になっています。江戸時代では、行商の「甘酒売り」が売り歩く光景は夏の風物詩でした。


甘酒のイラスト 甘酒には二種類ある

甘酒のイラスト 米と米こうじからつくる甘酒

 

 米と米こうじ(麹・糀)の甘酒は、本来は砂糖や水飴などは一切使用していないのですが、現在販売されているものの中には酒粕と米麹をブレンドしたものだったり、砂糖などの糖類が加えられているものもあるので要注意です。

 麹菌の発酵や酵素の働きによってデンプンがブドウ糖・オリゴ糖やアミノ酸に分解されることで、甘酒の甘味や旨味がつくられます。ブドウ糖・オリゴ糖・アミノ酸以外にもビタミンB群・葉酸などが一緒につくられます。本来の甘酒は米こうじの自然な甘みなのですね。

甘酒のイラスト 酒粕からつくる甘酒

 

 昭和の時代の甘酒は酒粕からつくる甘酒が主流だったかもしれません。酒粕と砂糖を溶かしてつくります。アルコール1%未満ではありますが、ごくごく微量のアルコールが含まれています。米と米麹からつくる甘酒よりもクセがあり、苦手な人が多いかもしれません。

 



甘酒のイラスト 江戸の庶民に親しまれた甘酒

 江戸時代の多くの文献に「甘酒」についての記述が見られます。時系列順にみていきます。

甘酒のイラスト 『本朝食鑑』の「醴漬」

 

 『本朝食鑑』人見必大による著作で、1697〔元禄10〕年刊。甘酒そのものではなく「醴漬(あまざけづけ)」について触れられています。

【原文】


醴漬者。用新好茄子連帯不大不小者百箇。別用不舂米五升浸水一宿至且蒸甑好麴五升白鹽二升半而拌匀充桶漬百茄子者如造鮓。一重三物一重茄子要茄子不相捎盖桶口緊封盖上載石而壓之外以澀紙固封而避風經百餘日取出爲香物。 【『本朝食鑑』巻之二・穀部之二「香ノ物・醴漬」】

 

『本朝食鑑』巻之二・穀部之二「香ノ物・醴漬」

『本朝食鑑』巻之二「香ノ物・醴漬」(国立国会図書館蔵)

 


【意訳】


 醴漬(あまざけづけ)は、新しい好い連帯(へた)の茄子の大きくもなく小さくもないもの百箇を用いる。別に不舂(つかぬ)米五升を一晩水に浸しておき、翌朝 甑(せいろう)で蒸し、好い麴五升・白塩二升半を加えて拌匀(かきま)ぜ、桶にあけて、ここへ百茄子を鮓を造るときのように漬ける。一重にこの三つの物(醴)を敷いたら次の一重に茄子というふうにして、茄子を続けて重ねないようにすることが大切で、桶を蓋(ふた)し緊く口を封じ、蓋の上に石を載せて圧(おもし)をし、外側は渋紙で固く封して風を避け、百余日を経て取り出し、香の物とする。【『本朝食鑑』島田勇雄〔訳注〕参照】

 


【かんたん解説】


 甘酒ではなく醴漬(あまざけづけ)です。少し後の文で「甘漬」とも書いてあります。茄子との相性が良く、それ以外の野菜とはあまり相性が良くないようです。

 



甘酒のイラスト 甘酒は一年中飲まれていた

 最近では「甘酒は夏の飲み物だった」とよく紹介されるのを見かけますが、よくよく調べてみると、江戸時代も後期になってから、それ以前は冬だけ飲んでいたのが一年中飲むように変わっていったことが分かります。もちろん暑い夏にも夏バテ防止のために栄養満点の甘酒を飲むようになりました。そこんトコロを探っていきます。

 


甘酒のイラスト 『塵塚談』の甘酒

 『塵塚談』小川顕道(1737-1816)の晩年の著作で、1814〔文化十一〕年刊『塵塚談』によれば、江戸後期になってようやく一年中売られるようになったことが分かります。それ以前は冬のイメージで、夏に甘酒は飲まれていなかったようです。

 

【原文】

 

あま酒は冬のものなりと思ひけるに近頃は四季ともに商ふ事になれり。我等三十歳頃迄は寒冬に夜のみ賣廻りけり。今は暑中往來を賣あるき却て夜は賣もの少し。淺草本願寺門前の甘酒店はふるきものにて四季にうりける。其外に四季に商ふ所江戸中に四五軒も有りしならん。【『塵塚談』下之巻(『燕石十種』中)参照】

 

『塵塚談』(国立国会図書館蔵)

『塵塚談』(国立国会図書館蔵)

 


【かんたん解説】


 小川顕道は江戸後期の医者で、江戸の人。元文二年閏11月1日(1737年12月22日)生まれで、文化十三(1816)年歿。江戸時代に80歳近くまで生きたのはかなりのご長寿です。彼が30歳(1767年)の頃までは厳寒の冬の夜のみ行商が甘酒を売りまわっていた、とあります。


 『塵塚談』執筆時(1800年代初頭)には、暑い夏の日中に盛んに売り歩いて、逆に夜に売る方が少ない、と言っています。おそらくこの頃の甘酒のイメージが定着して「甘酒」=夏の季語になったのだと思います。浅草本願寺(東本願寺)の門前の甘酒店は古くからある老舗で四季を問わず一年中売っている、ともあります。江戸時代後期の江戸では甘酒を一年中販売する店が何軒もあったようなので広く庶民に親しまれていたことが分かります。

 

 


『明和誌』の甘酒

 『明和誌』青山白峰の著作で、1822〔文政五〕年刊。漢文の序によれば、明和(1764~1772)から文政(1818~1831)年間までの世相・文化・風俗を記事にしている、とあるものの、実際の内容は冒頭の文に「寶曆の末、明和の頃より文政迄、色々うつりかはる風俗をあらまししるすのみ」とあるように「明和」以前の宝暦(1751~1764)末期についても触れられています。1760年頃から刊行された1822年頃までの約60年間の世相・文化・風俗などの記事が箇条書きで記録されているのでとても読みやすいです。

 以下に「甘酒」についての記事を見ていきます。

【原文】


同年のころ、御ぞんじあまざけといふ見世、並木にあり、今所々醴見世の元祖なり。すべてあまざけ又納豆など、寒中ばかり商ふことなるに、近きころは、土用に入と納豆を賣きたる。あまざけは四季ともに商ふこととなる。【『明和誌』(『鼠璞十種 第二』中)参照】

 

『明和誌』(国立国会図書館蔵)

■『明和誌』(国立国会図書館蔵)

 


【かんたん解説】


 「同年」とは明和五〔1768〕年のこと。甘酒や納豆は寒い冬にばかり販売されていたのが、最近では〔夏の〕土用になると売りに来る、としています。

 

 「土用」というと現代人が馴染み深いのは、夏の土用の丑の日に鰻を食べる、だと思います。実は「土用」は春夏秋冬それぞれにあります。上の文脈からここでの「土用」は夏の土用のことでしょう。甘酒納豆も昔は冬のみの販売だったのに(江戸後期の)今では夏の土用の日にも納豆が売られるようになり、甘酒は一年中売られている、と言っています。

 『明和誌』も当時の江戸の世相や文化・風俗を記録しているのですが、ここの明和五〔1768〕年の記事が奇跡的に前述の『塵塚談』「我等三十歳頃迄は寒冬に夜のみ賣廻りけり」といった著者・小川顕道の30歳(明和四〔1767〕年)頃とちょうど同じ時期なのです。

 

 だとすると矛盾します。『明和誌』では明和五〔1768〕年頃には甘酒が一年中売られていたといい、『塵塚談』では明和四〔1767〕年頃はまだ寒い冬のみ売られていたとしています。

 推測するしかないのですが、両著者ともに当時の江戸について記憶や記録などを参考にして執筆したのだと思います。執筆時から40~50年前のことを思い出しながら書き起こしています。つまり回想録ですね。当然少しくらいの記憶違いなんてあったのではないかと思います。

 実際に『明和誌』例言でも「本來想ひ起す儘の記述なれば、年所の定かならぬ憾あり」とあります。また『塵塚談』の冒頭の文でも「今茲(ここ)文化十一年甲戌、七十八歳に至れり。其間の世の風俗を思ひ出すにまかせて書つらね、其時々に流行する事、都鄙〔注:「鄙」は“田舎”の意味〕これ一なりといえとも久しからずして迹(あと)かたもなくなり侍る事、水の泡の如くにして世の常なり」とあります。

 

 両書ともに「想ひ起す儘(まま)の記述」「思ひ出すにまかせて書つらね」など記録よりも記憶に頼っている感じがあります。なのでここではご両人どちらかの「記憶違い」説を推したいです。

 

 『明和誌』『塵塚談』両書ともに不確かな記憶による記述があるにしても時代の流れや甘酒の販売時期の変遷などをおおまかに知ることはできます。一級史料ではないけれども、充分に貴重な江戸時代の資料です。


甘酒の値段

宝暦現来集』の甘酒

 『宝暦現来集』山田桂翁の著作で、1831(天保二)年刊『宝暦現来集』を評した緒言では「寶曆より天保に至る約八十年間、江戸に於ける街談巷説を見聞のまゝに實記したるものにして、駒込の住人山田桂翁の著なり。桂翁は幕士にして、陀佛と號し、天保二年七十二歳にして、此書を著はしゝ由序文に見ゆるの外、其傳記未だ詳ならず」とあり、天保二(1831)年72歳の時の著作だと言っています。著者の山田桂翁の人物については伝記未詳とあるので出版当時から有名ではなかったことがうかがえます。

【原文】


天明中比迄は、醴一杯六文が古よりの定直段なりけるが、此時より七文に直上りける、其比予二十歳計の事なるが、三人連にていかゞ敷方より朝歸、互の袋中を探見るに、三人にて錢二十文ならではなし、何の食にも足らず、門跡前の醴一杯宛呑んと立寄見れば、一杯七文と直段上りけり、左すれば一杯宛呑事ならず、一人は湯計呑んで歸けり、此比は氣樂な面白事也、又其後いつの事なりしか、一杯八文が定直段と成けり。【『宝暦現来集』巻之七(『近世風俗見聞集 第三』中)】

 

 

『宝暦現来集』(国立国会図書館蔵)

■『宝暦現来集』(国立国会図書館蔵)

 


【かんたん解説】


 天明(1781~89)の中頃までは醴(あまざけ)一杯六文だったのが、この時から一杯七文値上がりしたのが著者の二十歳くらい(二十代)の頃だったとしています。著者の山田桂翁は1831(天保二)年に72歳なので1779(安永八)年に20歳でした。ちょうどその頃に一杯六文から七文に値上がりしたのですね。

 3人連れで朝帰りして皆で甘酒を飲もうとしたら持ち合わせが二十文しかなくて一杯七文に値上がりしていたので二杯しか買えず、一人はお湯ばかり飲んで帰ったというほっこりエピソード。3人で分け合って飲むとかしなかったみたいです。二十歳くらいの若者たちが夜通し遊び歩いていたのか朝帰りしてお金もなく甘酒も人数分買うことができなかっただなんて今の若者となんら変わらないですね。

 著者も記憶が曖昧で時期はよく覚えていないけども、後になって甘酒が一杯八文にまた値上がりした、と書いています。どれくらいのペースで値上がりしていったのかは不明ですが、天明〔1781年~1789年〕の中頃(1785年頃?)から最長でもこの書物が刊行された天保二(1831)年までの40年ちょっとの間に甘酒の一杯が六文から七文、そして七文から八文へと値上がりしていったことが分かります。


江戸見草』の甘酒

 『江戸見草』小寺玉晁(1800-1878)の著作で、1841(天保12)年刊。例言に「小寺玉晁が天保十二年二月、尾侯の參覲に從ひ東下し、十月歸國せしまで、九箇月間の江戸見聞記なり」とあります。小寺玉晁は尾張藩の陪臣で好奇心旺盛な人だったようで、参勤交代で天保十二年二月から十月まで9ヶ月間滞在した時の江戸見聞録です。

【原文】

[ 大白入 あま酒 ] あまざけ壹盃八文


至つてあじなし。予申けるは、我國でたべしとは大違ひ也、國のは誠によろしくといへば、それは御尤千萬なり、第一御國とは米がちがひ升から、どふしてもうまくは出來ませぬといひき。せうが入るといふことはなく、小せうを竹の筒よりふり出し入る也。

 

『江戸見草』(国立国会図書館蔵)

■『江戸見草』(国立国会図書館蔵)

 

 

【かんたん解説】

 

 尾張藩の陪臣・小寺玉晁は相当に好奇心旺盛な人だったようで、正直に江戸の甘酒は「至つてあじなし」と言っています。甘味や旨味を感じなかったようです。当時は砂糖が高価だったので酒粕そのままの甘酒だったのかなと思わせます。それに比べて著者が「故郷の甘酒は美味しいのに」と甘酒売りの行商人に文句を言ったら「お米が違いますから美味しくできません」と言われてしまったというエピソードです。

 江戸時代の米の品種がどのようなものだったかは知りませんが、お米の品種や品質に地域差も当然あったでしょう。今のように品種改良を重ねて病気や冷害に強くしたり、味をよくしたりということがあまりできていなかったのだと思いますが、江戸の米と尾張の米の品質はそんなに違っていたのでしょうか。「天下の台所」と言われた大阪には全国から米が集まりました。その大阪からほど近い距離にある尾張藩では江戸よりも良質の米が手に入りやすかったのでしょうか。謎は深まるばかりです。

 

 「せうが(生姜)入るといふことはなく」とも言っているので、故郷の甘酒生姜入りだったのでしょうね。現在でも市販の甘酒の中に生姜ブレンドのものがあります。

 

 『江戸川柳飲食事典』【甘酒】によれば「甘酒の飲み方としては、江戸人は生姜をすりおろし、胡椒を添加して、味をつけるのが一般的であった」として、前述の『江戸見草』「せうが(生姜)入るといふことはなく」というけども「江戸でも生姜は常用している」と反論しています。


 図解で「しんちう(真鍮)の釜也」とあります。次に紹介する『守貞謾稿』を見ても分かるのですが真鍮釜は江戸だけで使われていたようです。鉄釜よりも真鍮釜の方が光沢の美しさが際立って見栄えが良いので江戸っ子に好まれたのかもしれません。


甘酒の地域差 -江戸と京都・大阪のちがい-

守貞謾稿』の甘酒

 『守貞謾稿』喜田川守貞の著作で、全35巻にもなり、江戸時代後期の三都(江戸・京都・大阪)の文化・風俗・事物などを記録してくれています。


 1837(天保八)年から書き始め、1853(嘉永六)年の「概畧(略)」を見るとこの時点で【目録】「前集通計三十冊 既成」の記述や【後編目録】も巻四まで書かれているのでほとんど書き上げていたことが分かります。それからも加筆修正を続けて、1867(慶應三)年の文に「百年ノ遺笑ヲ思ヒナカラ再藏蓄ス」とあります。書き始めてから実に30年です。

 

 結局、江戸時代には刊行されずに秘蔵され、明治時代になってから翻刻され、日の目を見ました。埋もれたままにならなくて本当に良かったです。その根気と知性と謙虚さには驚くばかりです。

 


【原文】

夏月、専(もっぱ)ラ賣巡ル者ハ

【甘酒賣】

醴賣ナリ。京坂ハ専ラ夏夜ノミ之ヲ賣ル。専ラ六文ヲ一碗ノ價トス。江戸ハ四時トモニ之ヲ賣ル。一碗價八文トス。蓋(けだし)其扮相似タリ。唯(ただ)江戸ハ眞鍮釜ヲ用ヒ或(あるいは)銕釜ヲモ用フ。鉄釜ノ者ハ京坂ト同ク筥中ニアリ。京坂必ズ銕釜ヲ用ユ。故ニ釜皆筥中ニアリ。 【『守貞謾稿』巻六】

 

『守貞謾稿』巻六(国立国会図書館蔵)

■『守貞謾稿』巻六(国立国会図書館蔵)

 

 

【かんたん解説】

 

 夏の行商の一番目に「甘酒売り」が紹介されています。京阪(京都と大阪)ではもっぱら夏の夜のみ売り歩き、だいたい甘酒一杯六文が相場だとしています。

 余談ですが、原文では「京坂」ですが、現在の「京阪」(京都と大阪)ですね。大阪の地名は江戸時代には「大坂」と書かれることが多いものの「大阪」とも書かれました。

 京都・大阪と比べて江戸では一年中売っていて、一杯八文が相場です。やはり江戸の方が物価が高かったのですね。

 甘酒売りの行商人の身なり・格好はだいたい似たようなものだったようです。江戸では真鍮釜または鉄釜を使い、京阪では真鍮釜は使われず、鉄釜だけが使われていました。鉄釜は筥(竹で編んだ丸いはこ)の中に入れていましたが、図解でも「江戸眞鍮釜ノモノハ釜筥上ニ出ツ」とあるように真鍮釜は筥(はこ)に入れなかったようです。やはり真鍮(黄銅)は光沢の美しい金属なので絵になります。甘酒売り目線で見ると、とてもシンボリックな存在感を放つ真鍮釜は見た目も美しいのであえて筥(はこ)に入れずに見せつけたのではないかと推測します。


江戸時代「甘酒」文献のまとめ

 以上、江戸時代の文献たちから甘酒がよりいっそう親しまれていったことが明らかになりました。判明したことをそれぞれ書き出してみます。

 『塵塚談』(1814年刊)や『明和誌』(1822年刊)からは、江戸時代中期頃までの江戸では冬の夜のみ売られていた甘酒が江戸時代後期までには四季を問わず一年中売られることになっていったことが分かります。

 

 他にも行商の甘酒売りだけでなく、淺草本願寺門前の老舗の甘酒店を代表として江戸中にその他に4、5軒の甘酒店があったことも書かれています。

 

 「淺草本願寺門前の老舗の甘酒店」について『江戸川柳飲食事典』【甘酒】によれば「店売りとして、浅草本願寺前の三河屋・大坂屋・伊勢屋が著名であった。しかもこの店ではいずれも「三国一」という商標をかかげている」と紹介しています。

 

 「三河屋・大坂屋・伊勢屋」については『江戸食べもの誌』(興津 要)では「三国一甘酒といえば、浅草東本願寺(俗称東門跡、門跡様、台東区西浅草一丁目)前に、三河屋兼次郎、伊勢屋伊兵衛、大坂屋万右衛門など三軒の甘酒屋があって有名だった。 …… その商標は、「三国一流 浅草御門跡前 和国醴 大坂屋万右衛門」のごとくだった。」と詳細に解説しています。

 「三国一」については『江戸食べもの誌』の中で「富士山は孝霊年間に一夜で隆起したといわれ、甘酒も一夜酒というところから、富士山に擬して「三国一」と称した。そこで、甘酒は、「三国一」という看板を出していたし、「三国一」という銘柄(横山町、大黒屋)の甘酒もあった。」と解説しています。



 江戸時代前期の俳諧師・松尾芭蕉の句に次のようなものがあります。

 寒菊や 醴造る 窓の前

 醴(あまざけ)の句になりますが、この句の場合の季語は「寒菊」でもちろん冬です。あれっ!? と思った人もいるかもしれませんが、松尾芭蕉(1644-1694年)の生きた江戸前期の時点では、甘酒・醴(あまざけ)は夏の季語ではなかったようなのです。


 『塵塚談』『明和誌』などの記述から江戸中期~後期にかけて夏に甘酒を飲む習慣が広まったことがわかります。江戸前期の松尾芭蕉の時代にはまだ「甘酒」=冬のイメージでした。

 『宝暦現来集』(1831年刊)からは著者の山田桂翁二十歳〔1779(安永八)〕の頃に甘酒の値段が1杯六文から七文値上がりしたと書き記しています。またその後にも時期は不明だが1杯八文に値上がりしたといっています。

 『江戸見草』(1841年刊)では、甘酒が1杯八文だったことや江戸の甘酒は「至つてあじなし」で美味しくなかったことが書かれています。「せうが(生姜)入るといふことはなく」と不満げに言っているので故郷の尾張藩の甘酒には生姜が入っているのが普通だったのでしょうね。

 この点については、渡辺 信一郎 著『江戸川柳飲食事典』では「甘酒の飲み方としては、江戸人は生姜をすりおろし、胡椒を添加して、味をつけるのが一般的であった。『江戸見草』(天保12)に、「あまざけ壹盃八文。至つてあじなし。(略)せうが入るといふことはなく、小せうを竹の筒よりふり出し入る也」とあるが、江戸でも生姜は常用している。」と解説して、『江戸見草』の内容に反論しています。

 他にも「しんちう(真鍮)の釜也」といって江戸では真鍮釜を使っていたと書いています。

 『守貞謾稿』(1853年稿本序文があるも刊行されず)は、江戸時代後期に書かれた書物ですが、京坂(京都・大阪)と江戸のことが一緒に書かれているのが特徴です。江戸時代後期でも京坂では(冬ではなく)夏の夜のみ売り歩き、だいたい甘酒1杯六文が相場であり、前述の通り江戸では一年中売っていて、1杯八文が相場だったようです。京阪と江戸では甘酒を売る時期物価も違うことが分かります。あとは前述の『江戸見草』でもあった通り江戸では真鍮釜または鉄釜を使い、京阪では必ず鉄釜を使う、とあります。

 『守貞謾稿』「甘酒売り」の絵図(下図を参照)を見ると天秤棒を担ぐスタイルだったことが分かります。ちょいと色付けしましたが、後ろの箱には甘酒を温めるための火炉が備わっていてとても機能的です。冬場でも熱々の甘酒を提供することができたのですね。次の句から察すると暑い夏にもかかわらず熱い甘酒も提供されていたようです。

 

 

 甘酒は 照六月に 煮商ひ (出典:『江戸川柳飲食事典』所引『俳諧觽』)

 

 『守貞謾稿』甘酒売り(国立国会図書館 蔵)
■『守貞謾稿』甘酒売り(国立国会図書館 蔵)


 以上の事柄をまとめると、江戸時代中期には行商の甘酒売りだけでなく店舗型の老舗の甘酒屋がすでに存在しました。江戸中期から後期にかけて江戸ではそれまで冬の夜のみ売られていた甘酒が一年中売られるように変化し、1杯六文だったのが七文、八文と次第に値上がりしていきました。江戸時代後期でも京阪ではまだ1杯六文で売られ、夏の夜のみ売られている、というように地域差があったことが分かります。


甘酒のイラスト 甘酒 日日是愛飲

 二百年以上前の江戸時代から庶民に親しまれて飲まれていた甘酒。甘酒は、栄養満点で整腸作用による健康効果はもちろん美肌・美髪抗老化作用などの美容効果も期待できる優れものです。

 栄養学的にもブドウ糖・オリゴ糖やアミノ酸・ビタミンB群・葉酸などが豊富で体内で消化吸収されやすいのでまさに「飲む点滴」です。

 忙しい朝に朝食抜きにするぐらいなら甘酒だけでも飲んで行くとか、甘味の割にはカロリー低めなのでダイエット食として取り入れるのもアリだと思います。どんな形であれ、健康にも有益で素晴らしい伝統食を生活の中に取り入れて頂ければと思います。

 

 


参考文献

 

・『発酵は力なり』(小泉武夫)NHKライブラリー

・『本朝食鑑』人見必大〔著〕、島田勇雄〔訳注〕、東洋文庫296
・『塵塚談・俗事百工起源』小川 顕道、宮川 政運〔著〕、神郡周〔校注・解説〕、現代思潮社
・『近世風俗志 (1)(守貞謾稿)』喜田川守貞〔著〕、宇佐美英機〔校訂〕、岩波文庫
・『芭蕉俳句集』松尾芭蕉〔著〕、中村俊定〔校注〕、岩波文庫

・『袖珍版 芭蕉全句』 堀 信夫〔監修〕

・『江戸川柳飲食事典』渡辺 信一郎〔著〕、東京堂出版

・『江戸食べもの誌』興津 要〔著〕、朝日文庫